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スピリチュアルな日常

​人間の思考が及ぼす様々な影響 前編

訪問者の皆さま、いつもHPを真剣に読んでくださり、ありがとうございます。

本日は、最近私が日常の中で感じたことを少し綴ってみようと思います。


最近、色々な場面で、色々な方達とのお付き合いをさせていただく中で、人と接すれば接するほど「人間てみんな、こうも考え方が違うものなんだなぁ」ということに、改めて気づかされます。

自分の思いが相手に伝わらない時、それとは逆に相手の気持ちが分からない、あるいは理解に苦しむ時、自分自身はどうあればいいのかと心の中で葛藤し悩んでしまうことって、きっと誰にでもありますよね。


この地球には数え切れないほどの人類が存在し、私達はみな異なる思考や感情を持っている。様々な思考が飛び交う人間社会の中で、私達が穏やかな日常生活を送るためには、どの様なことが大切になってくるでしょうか?


始めに、私達人間の世界には「これは正しい事だが、これは正しくない」と、世間が作り上げた正義感や倫理観が存在します。


我々人間はある一定の型にはまることを好み、そこから少しでもはみ出してしまうと周囲の人達から変わり者扱いされ疎外感を味わうのではないかと、常に周囲の目を気にしながら過ごしていらっしゃる方も少なくないかもしれません。


では、日常の中で俗に「正しい」と称されている様々なことは、実際には本当に正しいことと言えるのでしょうか?


実は、「正しい」という決断をくだす判断基準というものは、1人1人がみな違うものなんですよね。私個人としては誰の言っていることが一番正しいという決まりなんて、実際はどこにもないと思います。


それはなぜかと言うと、「どなたの意見も、どなたの考え方も決して間違いではない」からです。


私達が歩む長い人生には、どんな時に何をチョイスし、自分の人生をコーディネイトしながら進んでいくのか、幾通りもの選択肢が用意されていますよね。


その中で、自らの思考を駆使して選択し行動へ移していくわけなのですが、第3者からはそれを「正しい」「正しくない」という、本当にあっけない一言で評価されてしまうことがあります。

しかし私は正直なところ、「どの選択が正しくて、どの選択は正しくない」と、物事を何でも白黒で分別する必要はないと思うのです。


中間のグレーがあったっていいではないですか (^-^)


どの出来事においても、答えは1つだけとは限らないですよね。各々の個性が活きている、色々な考え方や答えがあってもいいと思います。


さて、では先ほど挙げた「正しい」「正しくない」、という2つの言葉。あなたなら、この言葉をどの様な状況のときに使うでしょうか?

多くの場合、異なる意見や思考を持つ人に対して、自分の考えを正当化し相手に認めさせたい時や、自分の考え方にそぐわない相手をジャッジするために使っているのではないでしょうか?


私はこれらの言葉を使い、人をすべて「善し悪し」で評価・判断する必要はないと思います。


例えば相手の思考や行動が、自分にとって好ましくない影響を及ぼすものだと感じた時には、その相手を正しい・正しくないとジャッジするのではなく、ただ自分自身がそのような心のあり方で生きなければいいだけのことですし、それを行動に移さなければいいだけのことです。


そしてもし仮に、自分の言動が周囲に受け入れてもらえないことがあった時でも、自身が「こうあるべきだ」と判断したことなら、己の思考を信じ自信を持ってそれを貫けばいいのです。


何が正しいとか、良い悪いという周囲の反応ばかりに惑わされず、自らの行動にしっかりと責任を持ち、前へと進んでいけばいいのです。


いわゆる世間で「悪い」「正しくない」と言われることをしている方々も、私達と同じ人間であり、心もあれば思考もあります。


周囲からマイナスな評価を受けている人達が、そのような思考を持って行動をしているのにはおそらく様々な要因があり、直面する経験の中から、本人が気づかなければならない人生課題が存在しているのだと思います。


ですから周囲がわざわざ騒ぎ立てなくても、どこかのタイミングでその方自身が気づき、生き方を悔い改める時が必ずやってきます。


人を正しい・正しくないと延々ジャッジする時間があるのなら、その時間で自分自身の内面を深く見つめ、向上させるための時間にあてるほうがずっと有意義ではないでしょうか (^-^)


(平成21年3月 記)

お話の続きは後編へ


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