
あなたの個性はママの宝物
24 フリースクールという選択肢 次男くんの場合 2

平成26年4月。
いよいよ次男君のフリースクール入学式の日がやってきました。
この日は次男君とパパと私、3人で式に参加せていただきました。
彼がこれから通うフリースクールは、あらゆるジャンルの発達障害をもつ子ども達を専門的に受け入れてくださる学校で、次男君のようなアスペルガー症候群や高機能自閉症、広汎性発達障害・学習障害(LD)・注意欠陥 / 多動性障害(AD/HD)・知的障害を伴う自閉症など様々な性質をもった子ども達が通学しています。
先生方は臨床心理士等の資格をお持ちの方が多く、スクールでの授業はもちろんのこと、子ども達の成長過程における心身ケアを同時に行ってくださいます。
小学校5年生の時、自分の持つ個性(発達障害による彼独自の偏り)によって周囲からの疎外感を覚えるようになってしまった次男君。
「こういう苦しみを味わっているのは自分だけなのかな」と、大きな孤独と不安を抱えながら様々な葛藤を繰り返したのち、彼は自らの意志で新たな道に進んでいく決意をし、これから過ごす自分にとっての大切な居場所を見つけました。
こちらのスクールへ入学相談に伺った際、先生が沢山のお話を私達親子に聞かせてくださいました。次男君に限らず「発達障害」と称される子ども達が、社会生活の中でどの様な苦労を強いられているのか、ということ。
自分以外にも同じような境遇に立たされている人達がたくさんいるのだと知り、彼は今まで抱えてきた心の重荷からずいぶん解放されたようでした。
さて入学式が無事終わり、私と次男君が希望に満ちた表情で帰り道を歩いていると、主人が突然、「なんか、こういう所に通わせるのは嫌だなぁ。できれば普通の学校に行ってほしかった」と、ポツリと言いました。
確かに、本来通うはずだった地元中学校ではなく、電車で片道1時間半もかかるフリースクールにこの先何年も通うこと。そして小さな教室の中で、たった2人の新入生と数名の在学生だけで細々と行われた入学式。
その光景に、主人なりに何か感ずるものがあったのだと思います。
パート1で少しお話しましたが、フリースクールとはそもそも、在籍学校に通えなくなってしまった子達が学期の途中で徐々に移動してくるケースがほとんどで、どちらかといえば最初から入学する私達の方が珍しく、人数が少ないのはある意味当然のことなんですけどね。
実はね、主人は当時、次男君独自の個性(アスペルガー症候群)をまだ心から素直に受け入れられていないところがあったんです。
まぁ、世間でよく言う「うちの子に限って・・・」ってやつですよね(苦笑)
少々厳しい言い回しになってしまいますが、結婚してからこの十数年、主人は自分の忙しさを理由に子ども達と正面からじっくり向き合うことをしてきませんでした。
わが子達と過ごす貴重な時間、そして一番大切な心の触れ合いや信頼を自ら築こうともしなかった状態でこの日をむかえたわけですから、私からしてみれば「子ども達の本質を理解できてないんだから、目の前の現実を受け入れられないのもそりゃぁ無理は ないよね」と思いましたけどね(笑)
そのような言葉を口にした主人に対し、こう言葉を返したのを覚えています。
じゃあ聞くけど、あなたが言う「普通」っていったいなに?
うちの子が他の中学生と違う道を歩むことになったら、それって普通じゃないってことなの?「普通」だとか「普通じゃない」とか、世間体ばかり気にして人や物事を何でも区別すること自体、何だかおかしいよ。
この学校(発達障害児専門の学校)に通うことだって、たいき自身が自分をちゃんと見つめた上で、今のままじゃこの先社会に出た時苦しいからって、自分の中にある個性(偏り)と向き合って成長しようとしてるんだよ。それって素晴らしいことじゃない。
本人が自分の意志でしっかり決めたことなんだし、大事なのは「そこがどういう学校か」とかじゃなくて、彼が「そこで何を学んでいくのか」でしょ?
私達は親として、彼が進もうとしている道を心から応援するべきなんじゃないの?
と、まぁ最初はそんなマイナス方向の考えから始まった主人ですが (笑)、現在ではわが子達の良き理解者(!?)となり、頼もしい父として様々なサポートをしてくれています。
一般的にはあまり知られていないようですが、実は発達障害というのは、「病気でも、それにちなんだ症状」でもありません。
病院へ行くと「障害」という名の診断名こそつけられてしまいますが、これはあくまでも各々の人間が持って生まれた「個性(脳から伝達される信号の偏り)」にすぎないのです。
その偏りの強さによっては時として薬の処方や周囲のサポートが必要になることもありますが、基 本的には世間で「普通」と称されている人達となんの変わりもなく、行動や考え方が少し異なるからといって偏見の目で見たり・接したりするのは逆におかしなことで、むしろそういった周囲の人達の方こそが、その少数派の人達の存在を理解する柔軟な心を養う必要があるのではないかと、私個人は常日頃感じています。
いずれにしても、まだまだ色んな意味でサポートが必要な次男君をこちらのスクールでお世話になりながら、地道に見守っていくこととなったのでした。
もともと「学校」という場所が大好きな次男君。色々あって約1年半登校できない辛い日々が続きましたが、その長い空白を取り戻すかのようにその後は元気にスクールへと通うようになりました。
入学してからあっという間に月日が経ち、彼自身も自分の内面としっかり向き合いながら、同じ場所へと通う生徒達との交流を少しずつ深めていきました。
「ここには、自分の個性をありのままに受けとめてくれる人達がいるから孤独じゃない」という彼なりの安心感もあったのでしょう。私は、毎朝笑顔で家を出ていく彼の姿から、「スクールの人達との交流を通して大きく成長していきたい」という、とても強く・明るい意志を感じました。
そしてこのフリースクールに次男君を通わせることによって、親である私自身もまた、1人間として視野をよりいっそう広げるための学びを得る、本当に貴重な機会をいただけたと思っています。
こういう場所に飛び出してみて改めて気づいたのは、「人間とは、なんて狭い世界・視野の中で生きているんだろう」ということ。
自分自身が身をもって経験しなければ理解できないような出来事や人達が、この世の中には本当にたくさん存在しているんだということです。
おそらく、わが子達がここ数年で不登校になることもなく、「当たり前の生活」を何の問題もなく過ごしていたら一生気づけなかったことだと思います。
「世間体」「常識」という固定概念に捉われ、親としての立場や一般社会における価値観ばかりを重視し、大切なわが子の「心」に寄り添ってあげられないことが、いかに愚かであるのか。
次男君を、人間社会が独自に作り上げた堅苦しい「型や枠」にわざわざ当てはめようとしなくたっていいじゃないかってね、純粋にそう感じました。
次男君は、人様を傷つけたり・世間のご迷惑になるような悪いことなど何ひとつしていない。彼は何も飾らない、ありのままの自分自身を、周囲からただ認めてほしいだけなのですから。
彼が今後外の世界に出た時、独自の偏りに臆することなく円滑な人間関係を築いていけいるよう、その「方法」を学ばせる必要は大いにあると思いますが、それは決して、自分の心を押し殺してまで周囲に合わせることや、都合の良い人間を演じる術を教えることではないんですよね。
思考や行動が周囲と異なるからといって、その対象者を異色扱い・除外しようとするのではなく、私達人間 1人1人が、各々の持つそのユニークな個性を柔軟・寛大な心をもって尊重し受け入れ、調和しながら生きていけるような世の中を作っていくことが必要だと思います。
(平成29年3月27日 記)
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