
あなたの個性はママの宝物
17 次男君の今後 中学進路について 2

さて、ここまでは過去約1年間の経過を細かく綴ってきましたが、ここから話をもとに戻したいと思います。
平成26年を迎えた今年、4月になると次男君は中学1年生になります。
現在、小学校の先生方とご相談させていただきながら「体調不良による長期欠席」という形で学校から距離を置いていますが、この状態を中学生になってもずっと続けるわけにはいきません。
地元の公立中学校へ入学するとしても、また他の中学校に入学するとしても、彼が安心して楽しく学校に通えるようになる良い方法はないものか、と私は最近ずっと考えていました。
しかしここで、1年半前大学病院で診断された「自閉症」という言葉が私の中でスッキリとしない状態のままずっと残っていて、彼の進路を選ぶ大きな妨げになってしまっていました。
この1年間、「病院の先生が教えてくれないのなら」と、自閉症に関する知識を得るため自主的に学んではきたのですが、そのわずかな知識で彼の今後の方向性を決めてしまうことに少々不安がありました。
あの時病院の先生がおっしゃったように次男君が本当に自閉症であるとすれば、この先通う学校は特に慎重に選択をしてあげないと、現在と同じように学校に順応できずまた不登校になってしまい、彼の自尊心をさらに傷つけてしまう可能性が高いからです。
わが家の子ども達が通う地元の中学校には特別支援学級と呼ばれるクラスは存在するものの、発達障害児などに対応できる専任の先生や、それにまつわるサポート体制はほとんど整っていないというのが現状です。
また、逆にそのようなことをあまり深く考えずにその学校の普通学級に入り、今までと変わらぬ環境の中で学ばせてあげることが妥当なのか、それとも発達障害児のサポートがきちんとある学校に的を絞って考えた方が良いのか、迷うところでありました。
そこで、以前の病院とは違う総合病院を紹介していただき、改めて明確な診断と説明を受けることで今後の進路を決める道しるべになればと思い、パート1の冒頭に記載した12月27日、再度知能テストを受けに行ったわけなのです。
とてもありがたいことに、今回担当してくださった病院の先生はとても親身に私達親子と向き合ってくださり、丁寧に内容を説明してくださいました。そして、次男君のように「知的障害を持たない自閉症」とはどの様な状態の人のことを言うのかを深く認識することができました。
まず、以前の病院で「知的障害のない自閉的傾向(アスペルガー症候群)である」と診断されたことについては、ほぼ間違いはないそうです。
ただし現在は、それらの障害を持つ該当者に対し「自閉症」という言葉をそのまま使うのは正しい表現ではないそうです。
下に、現在医療機関において認識されている発達障害(自閉症スペクトラムの総称)の概要を記載しますので参考にしてみてくださいね。こちらも本文に対する補足ですので、ご興味のない方はスルーしていただいて大丈夫です。
発達障害とは、生まれつきなんらかの原因により起きた、発達を伴うにつれて発覚してくる脳機能障害とされ ています。
また、発達障害というのはそういった子どもの成長発達段階において明らかになってくる様々な障害の総称であって、知的障害、広汎性発達障害、高機能発達障害(代表的な判断名としてはダウン症、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害、注意多動性障害等)などがあり、知的な遅れを伴わない発達障害もあります。
社会的に認知度が低いため、発達障害を抱えた人たちは暮すことに困難を抱えています。たくさんの方に存在をわかってもらう、理解してもらうことこそが、発達障害を持つ人たちの最大のサポートとなるのですが、まだまだ日本の福祉社会には課題が多いとされています。
◇◆自閉症・自閉傾向である
広汎性発達障害というのは、「こだわりがあり社会性コミュニケーションを取るのが難しい障害」のことをいいます。自閉症や自閉傾向のある人を指してもいます。
「社会性に難しい」というのは、他者との会話や行動、やりとりが苦手で困難、相手の感情を理解することが難しいということです。
◇◆高機能発達障害とは、知的には遅れがない障害です
高機能広汎性発達障害は、知的には特に問題がなく、むしろ標準よりも高い場合が少なくはありません。
広汎性発達障害で知的に遅れがある自閉症や自閉傾向のある人と幼少期は、よく似た発達段階を踏んでいきますが、自閉症・自閉傾向の人によく見られる、強い行動面・興味・食事などにおいてのパターンや種類にこだわってしまう「こわだり」や、言葉に遅れが強く見られなかったとしても、会話が一方的であったり、興味のあることや自分の話しか できない、集団の中に溶け込みにくいといったコミュニケーションに悩みを持つといった特徴があります。
◇◆コミュニケーションをとることが難しい
高機能広汎性発達障害と診断された人たちにとっては、社会・集団の中でのいろんな規則・ルールを自分の中でうまくとらえることが難しく、それを表現することにも、かなりの時間を要するといったストレスをとても抱えて過ごすことになります。
また、相手の感情を察するのも苦手ですから、誤解されやすいし、誤解もしやすく、普通の人以上に社会的に自立をするということでは大変厳しいのです。これは、知的な障害を持つ人よりも、ある意味大変なことではないかと思われます。
◇◆誤解されやすい広汎性発達障害
そういった社会性に難しくコミュニケーションをとるのが苦手が人たちで、広汎性発達障害を持つ人の半数は知的障害がないことから、幼少期のころは、わざとコミュニケーション妨害をしているなどと思われ誤解されやすく、傷ついてしまうことも少なくありません。
また、決まった行動パターンに執着したり、偏った興味・食事をするといった「こだわり」行動が見られるのも広汎性発達障害の大きな特徴であると言えます。
◇◆広汎性発達障害の支援
広汎性発達障害と言われている人の中でも、知的に障害がある人、ない人、もしくはそれ以上の人と実に色んな人が存在します。
知的障害を持つ広汎性発達障害の人は、療育手帳・愛の手帳などと呼ばれる障害認定書なるものが発行され、公的支援を受けることができますが、知的に問題のない人の場合は、社会性に大変困難にも関わらず公的支援を受けることが出来ないのが実情です。
単純に知能検査だけで、障害の公的支援を決めることに、とても疑問があると思われます。知的障害・知的障害と広汎性発達障害・広汎性発達障害だけ・・・それぞれにあった診断、公的支援ができることを多くの知的には問題のない広汎性発達障害に悩む人が望んでいます。
◇◆障害を受け入れるということ
少なくとも、小学校生活に不安を感じた親御さんですと、養護教育センターなどといった相談施設でアドバイスを受けることになると思われます。特別支援学級という選択を始めて思案する人もいるでしょう。
また、やっていけるか不安はあるものの、入ってみなければ分からないと思い、見て見ぬふりをする親御さんもいらっしゃるでしょうし、今までの変わった行動のことを学校側にきちんと話をして理解を求め普通学級に通うという選択をされる方もいらっしゃいます。
知的な障害がないからこそ、親御さんは障害を受け入れることも非常に難しいですし、その子のことを理解できないのかもしれません。どれが正しいことなのかは、人それぞれの環境によって違ってくると思うのではっきり言えないのも事実です。
ですが、親御さんが子供の障害を理解して分かってあげることが、今後の集団で学び生きる上で重要ではないかと思うのです。
◇◆200人に1人がアスペルガー症候群
アスペルガー症候群(または高機能自閉症)と呼ばれる高機能広汎性発達障害を持つ子どもの特徴は知的に遅れがないケースが多く、(しかし中には軽度の知的障害を持つ人もいますし、重度の知的障害がある人にも似たような行動が見られることは珍しくありません )統計でも、子どもの200人に1人がアスペルガー症候群であるといったデータが出ていますように、どこの学校にも必ずアスペルガー症候群に悩む子どもがおり、その存在はおかしいものではありません。
ですが、教育現場の現状として、そういう子どもたちを「出来ない子・集団を乱す子ども」とレッテルを貼り付け、結果、その子どもの自信を見事に打ち砕くといった教師も少なくはありません。
昔は、いろんな子どもがいて、先生もなにかしらうまくやっていけていたはずなのですが・・・
◇◆教育の現場の理解
昭和の時代などは、かならず変わった博士タイプな子どもだったり、ドラえもんに出てくるキャラクターの、のびた君やジャイアンのように極端な子どもも普通にいて、それに対応できる先生はたくさんいたのです。
それが、今の先生にとって難しいとされています。それはどうしてでしょうか?
やはり、現場の忙しさに教育委員会からの書類を求められ、親には色々と相談というより苦情を好き放題に言われ、心の余裕がなくなるといったこともあるとは思うのですが、先生自身の器量も現在の核家族構成から、人間関係が希薄になってきているのではないでしょうか?
だからこそ、先生にはいろんな子どもの存在をもっと知っていてほしいし、特別支援学級の先生に限らず、発達障害を持つ子ども、とくに知的に問題がないとされるようなアスペルガー症候群の子どもの存在を知識として学んでもらいたいと願います。
このことは、障害のあるなし関係なく、教育現場で必ず役に立つことだと確信しています。
◇◆私たちが支援できること
広汎性発達障害とは「自閉症・自閉傾向」のある人のことで、その中で知的には特に問題がないか、それ以上に高い知数の人のことを「高機能自閉症・自閉傾向のある高機能・アスペルガー症候群・学習障害・注意多動欠陥多動性障害」と呼びます。
その中でもさらにちょっとした違いによって診断が変わる場合もあるわけですが、ここで言いたいことは、「広汎性発達障害」という名前でもいろんなケースがあるということです。
これは「知的障害」の人も同じことですが、本当に、その人一人一人によって対応も違います。
私たちが協力できることは、まずは、障害をいう先入観を持たないということ。あくまでも障害は個性であって、なんら普通の人と変わりはないのだということを前提に、正しい理解をもって接することが大事であると思います。
http://www.vastra.org/ 「発達障害の総合情報サイト」
http://dditoguchi.jp/ 「発達障害 療育の糸口」
発達障害についてもっと詳しくご覧になりたい方はこちらへどうぞ。
上に記したように、発達障害と呼ばれる人の中には「これだ」と断定できる決定的なパターンや傾向はなく、該当者1人1人がそれぞれまったく違った特質をもつケースも多いのだ、ということを教えていただきました。
これらに該当する人達は「自閉症スペクトラム」という総称で診断を受けることが多く、明らかな自閉症という診断名がつく人は、実際はごく少数なのだそうです。
また先生のお話によると、現在は該当者に対し医師が積極的に診断の告知をすることは控えているそうです。
これはどういう理由からかというと、例えば重度の発達障害を持つ人でも、周囲の理解が深くその人自身が何の問題もなく充実した社会生活を送ることができていれば、「あえて診断名をつけて周囲と区別をする必要はない」のだとか。
逆に軽度の発達障害の人でも、社会生活や人間関係に明らかな支障をきたしている場合には、本人がどの様な苦しみを抱えているのかを理解してもらった上で対応してもらえるよう、必要に応じて診断書を出してくださるということなのです。
今回知能テスト等を受けてみて改めて理解できたことは、次男君はやはり、最初の病院で診断された通り「広汎性発達障害(PDD)」(高機能自閉症またはアス ペルガー症候群)という部類に該当し、知能全般に関しては同じ学年の子ども達とほとんど変わらない平均値なのですが、そのバロメーターの一部に、一般の子どもには見られないような独特な偏りがあるそうです。
その詳細として、下記の点が次男君に該当しているそうです。
①対人的相互反応における質的障害
(相手の気持ちがつかめない、場にあった行動がとれない)
②コミュニケーションの障害(言葉の使用の誤り、会話をつなげない)
③こだわりが強い(行動、興味、活動が限定していて反復・常同的)
これらの障害をもつ人達は、見た目や知能自体は障害を持たない人達と何ら変わらないため、周囲の人達がこの独特な偏りを見分けるのは非常に難しいそうです。
そのため、上記の性質を集団生活や社会の中で理解してもらえないとどうしても孤立してしまう傾向にあり、実はこれが本人にとっては一番ストレスを溜める原因となり苦しいらしいのです。
病院の先生は診察の最後、考え方が人と少し違うことによって周囲からの疎外感を強く感じてしまっている次男君に対し、こう話してくださいました。
たいきくんは病気でもないし、変わった子でもない。
他の子達とおんなじ普通の子なんだよ。
だけど、世の中のものの捉え方って多数派の人がどうしても多くて、たいきくんはどちらかというと少数派の人だから、多数派な考えの子がいっぱいいる学校とかでは、自分の気持ちをなかなか分かってもらえず辛いこともあるよね。
でも先生はね、その少数派の人達は、多数派の人達には思いつかないようなすごい発想を持っていたり、すば抜けた才能を持っていたりするから、それってとても素敵なことだと思う。
だから自分に自信を持って、たいきくんの得意な部分をこれからドンドン伸ばしていこうね。
次男君は先生からいただいたそのお言葉によって、抱えていた精神的な負担が少しほぐれて気持ちがとても楽になったようでした。
今回このような説明を詳しく受けるまで、私自身も「自閉症スペクトラム」という発達障害がどのようなものであるのかをよく知りませんでした。と同時に、発達障害を持つ人達に対する知識や理解が、世間一般的にまだまだ深く浸透されていないのだということも改めて感じました。
病院の先生がおっしゃったように、これは彼がもともと持っているただの「個性」で、発達障害である・ない、なんてことは私自身もほとんど気にとめていないのです。
その個性が他人よりも少しだけ強くて色々と誤解されてしまうこともあるけれど、本来ならば周囲に対し、わざわざ彼が「発達障害です」なんてことを説明する必要はないと思っています。
だけど寂しいことに、社会ではまだ多くの人達が自分とは異なる思考や行動を持つ人間を異色扱いする傾向にあり、努力をしても集団生活に馴染めない次男君のような少数派の人間はなかなか受け入れてもらえず、孤立してしまうケースが少なくないというのが実情です。
そういった部分を考えると、この先次男君が長い人生を歩んでいく上で、発達障害であることを明らかにしたほうが気持ちも楽になり事がスムーズに運ぶというのなら、時と場合によってはその情報をオープンにしていくことも必要なのかなと感じています。
次男君が現在学校へ行っていないことに対し、「それは単純にわがままや甘えだろう」という意見をおっしゃる人もいます。そして彼の親である私に対しても「それは親の過保護だろう。みんな辛いけど頑張っているんだ。厳しい環境で色々なことを経験させないとダメだ」とおっしゃる方もいます。
ですが周囲の方がどの様に受け取ったとしても、また世間から厳しい声をいただいたとしても、私は、次男君が単なる甘えやわがままで登校拒否をしてい ると受け止めるつもりはありません。
確かに、この世の社会や人間関係の中には、辛くても・厳しくても、自分の力で乗り越えなければならない出来事がたくさん存在します。しかしその様々な経験の中には、自分の心を削ってまで、あえて耐える必要のないとても理不尽な出来事もあります。
また私達人間の中には、その辛くて厳しい経験に耐えられる強さを持った人と、そうでない人がいます。限度を超えた無理をして心にストレスをため続け、過酷な経験や周囲からの冷たい評価などにさらされたあげく、心が折れ、取り返しのつかない重病を招いてしまう人もいます。
自分からしてみたら「これくらいのことで本当に辛いの?」と思うようなことでも、他人からしてみたらそれは計り知れないほどの辛さなのかもしれません。だから自分の価値観だけ に偏った常識とやらを、相手に一方的に押し付けるのは違うんじゃないかなと思うのです。
皆と同じことができなくたって、それはそれでいいのではないでしょうか。
私が今すべきことは、まだまだ親のサポートが必要なわが子達の様子を常日頃からよく観察し、心のストレスの限界が訪れてしまう前にその子自身の個性に応じた然るべき方向を見出し、そのサポートをしっかりしてあげることだと思っています。
そんなわけで私は、学校以外の場所でも人との交流を築いていけるような、また学校でなくてもそれなりの教育が受けられ、何よりもその場にいることで彼が孤立して苦しむのではなく、自分の存在に自信をもち、安心 して楽しく笑って過ごせるような居場所をつくってあげたいと思い、次男君にフリースクールへの入学を提案してみました。
すると次男君は、最近久しく聞いていなかったようなワクワクした声色で、「その場所で新しいお友達ができるかな」と私の話に食いついてきました。次男君の反応に良い感触を得た私は、早速彼を連れ、事前にご相談をさせていただいていたフリースクールへと向かいました。
私が今回お世話になることを決めたフリースクールでは、そこの塾長ご本人が、一般の子ども向けの塾と不登校児のためのフリースクールを設け同時運営なさっています。
子どもが大好きで、一生懸命努力をしても学校に上手く馴染めずに苦しんでいる子ども達の、行き場のない寂しさや悲しさをとてもよく理解してくださっていると同時に、生徒1人1人の本来の個性を尊重し大切に考えてくださる方です。
また塾長は、あらゆる理由から多数の不登校児が生み出されてしまっている学校の様々な現状についても熟知されており、はじめてこのスクールにご相談に伺った日、私にこのように話してくださいました。
学校のように、あらゆる規則に縛られた環境の中では、生徒1人1人の個性を尊重しのびのびとした教育をほどこすにはどうしても限界があります。その事にはおそらく学校の先生方も悩んでおられることでしょう。
現在不登校児が圧倒的に増えているのは事実ですが、だからといって学校ばかりに非があるわけではないと思います。学校には、学校にしかできない貴重な経験と教育があるんです。
学校という場で決められた様々なシステムに問題なくついていける子はそれでいいと思いますが、そうではない子ども達は、周囲に理解されず本当に苦しいと思います。そんな子ども達がこのスクールに通うことによって、心から安心できるような自分にとっての居場所をここに見つけてくれればいいと思います。
また我がスクールでは「こうしなければいけない」という規則のようなものは一切設けていません。あくまでも個人の自主性を尊重し、自分の意志で考え、行動に移すのを見守っていくことで、子ども達は自分自身の力で驚くような成長を遂げるからです。
私は、塾長が説いてくださった数々のお言葉に深い感銘を受け、迷わず次男君をここに入学させてあげようと決心しました。
またこのスクールを選んだもう1つの理由としては、発達障害などに対応できる専任の先生がいてサポート体制もしっかりと整っており、次男君のように多様な個性を持った子ども達が数人通ってきていますが、どの子もとてものびのびと・イキイキと過ごしていて、スクールに携わっているスタッフの方達の温かさを身をもって体感できたからです。
さらに、現在長期欠席をしている学校に対しては、塾長ご自身がしっかりと連携をとってくださり、月に一度直々に次男君の状況報告をしに出向いてくださるという手厚さなのです。
その様な流れで、学校の先生方にもご協力をいただき、次男君は平成25年の秋から週に1回のペースではありますが、とても楽しくこのスクールに通っています。
スクールにいる時の次男君のイキイキとした明るい表情を見ていると、子どもにとっての教育現場は必ずしも学校である必要はないんだな、と強く感じました。(学校を否定している表現ではないので、その点はご理解くださいね )
そして今後も学校側にご理解とご協力をいただきながら、中学生にあがっても、次男君には次男 君に合った方法で学んでいくことが大切なんだなと思う今日この頃です。
子ども1人1人にあった形で無償教育を受けられるという、柔軟な選択肢がない現在の教育システム。
9年という長い義務教育期間の中で、子ども達とそのご家族が安心して様々なケアや経済的サポート、そして教育を受けることができるシステムが構築されるよう、私自身もあらゆる活動を通して呼びかけていきたいと思います。
(平成26年1月17日 記)