top of page
image391-1920x1200_edited.jpg

あなたの個性はママの宝物

​12 学校教育の体質について思うこと 1

DSC00988.JPG

現在わが家には、中学校2年生・小学校6年生・小学校4年生の息子が3人います。

今日は、私が育てているわが子を含め、その周囲を取りまく他たくさんの子ども達がおかれている、学校教育についての現状を少し考えてみたいと思います。

日本では、国の憲法による教育基本法・学校教育法等の規定に基づき、子ども達への教育方針が定められています。


小学1年生から中学3年生までの9年を義務教育期間であるとし、該当する子ども達については「一定の学校へ通い続けることが必須である」という風潮が存在しており、子ども達は教育を受けることに関して、極めて選択肢の少ない環境で過ごしているように感じます。

子ども達にとっての、人生を大きく左右するこの長い9年間。その中で、学校へ通う子ども達みんなが毎日大きな問題もなく、楽しく学校生活を送ることができているのかというと、現実はかなり厳しい状況であるようです。


もちろん学校のような共存社会の中には、異なる家庭環境で生まれ育ってきた人達が大勢集まるわけですから、1人1人が人と関わっていくうえで、悩みや不安を抱えながらも周囲と調和をとるために様々な努力をしていくことが大切だと思います。


しかし、「社会に適応できる能力を育むために」と国や学校が定めた、あらゆる「枠」の中に上手に溶け込むことができない子ども達がいたとして、毎日通うその場所で苦しんでいるとしたらその子たちの今後はどうなっていくでしょうか。


実は、私の周囲には現在、様々な理由によってスムーズに学校へ行くことができていない子ども達が数多く存在しています。


子ども達が学校に行けない理由は本当に様々です。


例えばわが子達のように、身体的な問題によって学校に行きたくても簡単には行けない状況に陥ってしまった子、また学校で何かしらの問題行動を起こしてしまったがために、「この様な子は学校では対処しきれない」と教師に見放されてしまったような子。


そして、集団生活の中から数々のストレスや精神的苦痛を受け、身体的な症状と合わせて心の病を併発し、学校や人に対する強い恐怖心を抱えてしまった子。

それぞれの置かれている状況は違えども、彼らは1人1人が、様々な心因的負担を抱えながら毎日を過ごしています。



・・・最近不思議と、学校を長期欠席しているお子さんをお持ちの親御さん方から、学校についてのお話を色々と聞かせていただく機会が増えました。


各ご家庭の保護者達は、わが子が不登校になってしまっているという現状にとても苦しんでおり、またこの様な事実は周囲の人達に簡単に相談できるような内容ではないことから、ご家庭の中だけでその問題を抱えこみ悩んでしまう傾向が強くあるように見受けられました。


そして、子ども達の教育に関わっている肝心な学校側との連携がうまく取れておらず、解決策をなかなか見出せないような辛い状況に陥ってしまっています。

上記のような内容を色々と踏まえつつ、今日は、この日本という国で成り立っている、「小・中学校までは義務教育でなければならない」という教育の概念について私自身が感じていることを、一方的ではありますが綴っていこうと思います。

ただし、今回私がこの記事を掲載させていただくにあたって、子を持つ1人の母として、保護者の立場だけに偏った感情的な意見を述べるつもりはまったくありません。


学校側から子ども達へのあらゆる対応について、保護者として少々不安を感じたり・納得がいかず意見を学校にぶつけたいと思うことは、私自身も少なからずあります。


しかしそれは時に、わが子を思うがゆえの過保護で理不尽な判断や行動であることも多く、実際には私達保護者の立場だけを重視した内容のクレームを学校側に突き付けていて、学校側も親への対応に困るケースがある、ということも事実です。

そして、私達保護者の教育に対する考え方もご家庭によって本当に様々であり、子ども達に教育をしていく上で、「これが絶対に正しい!」という結論を出すのはとても難しいところがあります。


また、学校側と保護者側でも、子ども達への教育に対する姿勢やあり方についてそれぞれの考え方は大きく異なってくる部分があります。


ですので今回はそういった様々な背景をふまえた上で、私達保護者の立場はもちろんのこと、学校側の立場も考慮しつつ、できる限り客観的な視点で私なりの考えを書かせていただければと思います。

​​

・・・と、自分の話を進めていく前に、まずは1つご紹介させていただきたい文章があります。


数日前、「日本の教育」というもののあり方について私がネットを通してあれこれと探求をしていましたら、ご自身の実際の教育経験からお感じになった様々なことを執筆なさっている、「古山明男」さんという方のブログを発見しました。


とても興味深い内容を書かれていらっしゃったので、まずはその記事の一部を抜粋させていただきたいと思います。ご興味のあるお方は、ぜひ目を通してみてくださいね。



<古山 明男氏>

1949年、千葉市生。出版社勤務ののちフリー。

専門学校講師、家庭教師を経て、私塾、フリースクールなどを主宰。ホームスクールを援助。

補習、受験、遊び、不登校児童生徒援助、教育相談など、地域のニーズに応じる。

日常の教育が制度に大きく制約されていることを知り、制度史、国際比較などを研究。


アメリカ、イギリス、オランダ、フィンランドに取材。信濃毎日新聞教育コラム「コンパス」の筆者の一人。著作:「変えよう!日本の学校システム」(平凡社)。

 

​◇◆就学義務を定めているのは憲法ではない


世界の義務教育には、いろんなものがある。アメリカ、イギリスなど、家庭で教育することが合法である国も多い。「でも、日本は憲法で就学義務を定めている」と思っている人が結構多いようである。


これが、違うのである。憲法ではない。憲法26条は、保護者が子どもに普通教育を受けさせる義務を定めているだけである。だから、「家庭で受けさせる普通教育」や「フリースクールで受けさせる普通教育」が、法律で定められて義務教育とされても、かまわないのである。


教育基本法も、普通教育を受けさせる義務としていて、就学義務としてはいない。『学校教育法』という法律で、はじめて就学義務が現れる。


日本の義務教育の構造そのものは、意外と柔軟なのである。普通の法律を作るだけで、いくらでも新しい義務教育を作り出すことができる。



『学校教育法』は1947年にできたもので、住み込み奉公に出されている子どもや、家業を手伝わされている子どもたちを就学させることを念頭に置いていた。それで、親に対して、教育委員会が就学を強制できるようにした。


当時のこととしては理解できる。ところが、数十年後に、学校ストレスのために学校に行けなくなる子どもたちが何万人も現れるということは、その時代にはまったく想定していなかった。今の時代に義務教育が行き渡るようにするには、就学督促を定めるより、親側に「うちの子にあった教育を可能にしてください」という教育請求権を定めるべきだったのだ。

『学校教育法』ができた1947年には、『世界人権宣言』がまだ出されていなかった。『世界人権宣言』は、「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」としている。この、親側の立場の尊重が、その後も日本の教育システムにまったく取り入れられなかった。そのため、義務教育は、いつまでたっても教育の配給制度なのである。

『学校教育法』だけで、すべての親が教育義務を果たせるようにするというのが無理であることは、不登校の子どもたちが現実に13万人近くもいることで明らかである。


 

​◇◆教育配給制度

義務教育の考え方を変える必要があると思う。親には子どもを教育する義務があることである。

これが、義務教育というのは、国が提供する教育を受けなければならないことだ、と誤って解釈されている。だから義務教育は、教育の配給制度になってしまった。


配給といっても、受け取らないわけに行かない強制配給である。この配給に要望を出すと、じきに「そこまで対応するのは無理です、当方も忙しいことをご了解ください」とか、「お子さんは特別です。家庭でしっかり育ててください」というような答えが返ってくる。


この答えの多くは、学校の現実としては正当である。しかし、保護者の立場が見えていない。保護者には他の教育手段がないのに、そういう現実論ばかりいうから、保護者側に不安と不信がたまるのである。


結果は、攻撃的な保護者がたくさん発生する。他の公共領域では、こんなにクレームが発生しない。学校と同じように子どもを扱う保育では、こんなにクレームに悩まされていない。



個別の学校の対応に限界があることは当然である。問題は、教育行政のほうにある。教育行政が学校と一体化しすぎているのである。保護者の立場が軽んじられている。保護者の教育義務を定めたなら、それに対応して「教育を請求する権利」と、柔軟に教育が発生してくる仕組みを作っておかないと、教育難民が発生してしまう。


それが、「不登校」である。



民主主義が発達した国の多くでは、国が提供する以外の教育を親が選べるようになっている。国は、本当の意味での最低基準を設定しているだけである。学校教育を提供するのは、自治体や私立学校である。学校に合わない子ども達が発生すると、それに応じた教育がなんらかの形で発生してくる。


どこを選んでも、無償であるようにしている国が多い。その柔軟性が必要なのである。

 

​◇◆結果を出す必要に迫られること

子どもの恐怖に訴えたり、成績競争をさせたり、野心に訴えたりせず、この世界がどうなっているか、それぞれの人がそこでどのように自分の生を充実させることができるかの発見を手伝うこと、それが教育だと思う。


なによりも、この世界が信頼するに足るところであることを、大人が身をもって示すこと。その教育のために、専門の場を作り、教師を雇用しているのが学校。



ところが、学校とはかくかくである、教師の仕事はかくかくであると、法律やら官庁が決めているうちに眼に見える結果だけが問題になっていく。手段であるものがどんどん自己目的化していく。

親も眼に見える結果がほしい人が多い。教師も、結果を出さなければならない。


学校を管轄するお役所は、眼に見えないものにまで立ち入れないから、文書や数字になる結果を求める。進学にあたっても、上級学校は、文書や数字を求める。どのような学校に進学できるかを確保してやるのが、親にできる最大の仕事でもある。


いっぽう、子どもの内面は見えない。それで眼に見える結果が最優先され、子どもの恐怖に訴えたり、成績競争をさせたり野心に訴えたりすることに、多くの人が鈍感になり美名をつけてしまう。

 

​​◇◆子どもを威圧する弊害

ときどき、普段は気付かない私自身の感情を感知できることがある。けさ、学校のトラウマだと思われるものにであった。目が覚めて布団の中にいるとき、身体と感情がこわばっていた。


じっとこらえてその状態を感じ取っていたら、恐怖感のようなものだった。権威・権力に威圧された状態だった。声もでない、思考も湧かない、体も動かない、そういう状態だった。その権威・権力は小学校のエッセンスのような感じがした。

小学校での出来事が残した影だった。どの出来事のトラウマかは思い出せない。以前から、こういうトラウマがあると推測はしていたが、実物にやっと出会った。


私の学校生活が怯えたものであった、大きな原因だと思う。私は成績もよかったし、友達もいた。でも、学校はイヤでイヤでたまらなかった。

学校は、怖いところだった。これがあるから、私は今でも、権力的なものに威圧されてしまうか、反抗するかしかなくなってしまう。すべてを小学校の体験のせいにしてはいけないと思うが。

私塾をしていて、教師あるいは学校の雰囲気に威圧されてしまった子どもたちをたくさん見た。小中学校の教師たちは、子どもたちをちゃんと整列させる、授業中におとなしく座らせる、それが最大の課題だから、全力を尽くす。そのときに、子どもの内面を威圧してしまっているのだと思う。


威圧された子どもは、知性が制約されるし、素直な感情表出が少なくなる。しかし、いまの学校制度、教育方法をとる限り、子どもを威圧でもしない限りまともな授業や集団行動を成立させることは難しい場合が多いだろう。


私が、制度問題を言い続ける理由である。


 

以上、古山明男さんがお書きになったブログから、勝手ながら1部を抜粋して掲載させていただきました。もっと詳しい内容をご覧になりたい方は


古山明男さんブログ

http://educa.cocolog-nifty.com/blog/cat7896212/index.html 

にアクセスしてみてくださいね。

さて、では上記の内容を踏まえ、パート2から本題に入っていきたいと思います。


(平成25年6月22日 記)

お話の続きはパート2へ


bottom of page